横浜や鎌倉、湘南や江ノ島などの日本を代表する観光地を有するとともに、東京に次ぐ人口を誇る神奈川県。神奈川県の推計によると2020年(令和2年)7月1日現在の人口推計は921万9,863人。源頼朝が鎌倉幕府を鎌倉にひらくなど、日本の中心として栄えたこともある、名実ともに日本を代表する都市。さて、今回はそんな神奈川県の難読地名 上級編をお届けします。中級編よりもさらに難易度を上げて、「知らなければ読めない地名」ばかりを集めました。
公所(平塚市)
公所は、古くからの住宅と新興住宅が入り交じるエリア。東には広大な田園風景が広がります。古くは旭村といい、1954年(昭和29年)に平塚市と合併。その後は近代化が急速に進みました。
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↓その答えは?
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読み「ぐぞ」
公所は、もともと「ぐしょ」と呼ばれていたものがなまって「ぐぞ」になったとのこと。この地が公所と呼ばれたことが文書で確認できるのが1647年(正保4年)の「正保改定図」。それ以前は坂間郷と呼ばれていました。
役所や関所の所在地を公所(くしょ、ぐしょ)と呼ぶことがあり、ほかの地域にも公所は存在します。さて、この地が公所と呼ばれるようになった由来は2説あります。一つめは小田原北条氏時代の直轄地であったときに、土地の有力者を小代官に任命して治めさせた地であることから、公所と呼ばれたという説。
もう一つは江戸時代に代官の手代の詰め所が置かれていたことから公所と呼ばれたという説です。いずれにしても、公所は400年近くその名が続いている由緒ある地名ということに変わりはありません。
現在の公所は、住宅が立ち並ぶエリアと田園が広がるエリアに分かれる静かな住宅地です。
鉄町(横浜市青葉区)
鉄町は、横浜市青葉区の緑豊かな文教地域。桐蔭学園がその面積の多くを占めています。
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読み「くろがねちょう」
鉄(てつ)は、古くは「黒金(くろがね)」と呼ばれていましたので、それを知っていた人は読めたかもしれません。
では、なぜ鉄町と呼ばれるようになったのでしょうか。その由来は、実は鉄(てつ)ではなく、「畔が曲がっていること」にあると考えられています。畔は、「くろ」と呼び、曲がるは「がね」と呼ぶため、「畔曲(くろがね)」と名付けられたとのこと。くろがねであれば、「鉄」だということで、鉄になったというのです。
鉄町は、古くは上鉄村、中鉄村、下鉄村といい、やがて鉄村になりました。1889年(明治22年)に13の村と合併して中里村大字鉄となります。その後1994年(平成6年)の行政区再編成に伴って緑区から青葉区に編入して、旧村名の鉄を町名としたようです。
現在の鉄町は、市街化調整区域であり、農業振興地域となっていて、桐蔭学園の南側は田園風景が広がるのどかな地域。 昔から大きく変わることがない懐かしい景色が受け継がれています。
行谷(茅ヶ崎市)
行谷は、文教大学湘南キャンパスが位置する地域。畑と森が広がる緑が多い昔ながらの情景が広がる地域です。
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読み「なめがや」
行谷地域は、戦国時代に行谷藤五郎という武士が支配していました。行谷藤五郎は、後北条氏の家臣です。江戸時代には、行谷村がつくられています。
行谷と呼ぶようになった理由が、武将行谷氏によるものなのか、そもそも行谷氏が行谷の地を支配していたことから行谷と称するようになったのかは定かではありません。
行谷には「行谷貝塚」があり、石器時代後期の竪穴式住居群や墓などが発見されています。大量の遺物が発見されたことから、本格的なムラがあったことがうかがわれます。現在も、行谷貝塚から出土した遺物の一部は、文教大学に展示されているとのこと。
また、行谷地域の鎮守である「金山神社」には1655(承応4年)の年号が記されている「庚申塔」があり、神奈川県指定有形民俗文化財となっています。
小谷(高座郡寒川町)
小谷は、寒川町の住宅が広がる水と緑が豊かなエリアです。
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読み「こやと」
小谷と書いて、こやと。同じ小谷の難読地名といえば、長野県の小谷村(おたりむら)が知られていますが、「こやと」はなかなか読めないのではないでしょうか。全国に、「小谷」と書く地名は方々にありますが、日本国語大辞典によると「こやと」と読むのは寒川町小谷のみであり、珍しい読み方であることが分かります。
小谷では、谷を「やと」と読んでいるように、関東地方では、低湿地のことを「谷(やつ)」と呼び、「谷(やと)」と呼ばれることもあります。確かに寒川町小谷は、相模川に近く目久尻川から水路が引かれており、標高が低い地域。そこで、小さい低湿地、「小谷(こやと)」と呼ばれたのではないかと考えられます。
小谷には、1586年(天正14年)に創建された「福泉寺」があり、江戸時代には寺子屋が置かれていました。その後1873年(明治6年)に同地に学校が設立され、教育がなされたそうです。
現在の小谷には住宅が広がっていますが、将来の発展が期待されています。小谷地域の北、倉見地域に東海道新幹線の 新駅を誘致する活動が行われているのです。新幹線新駅からほど近いとなれば、さらなる発展が見込まれ、今後大きく開発が進むかもしれませんね。
都夫良野(足柄上郡山北町)
都夫良野といえば、東名高速道路の全長1.75キロメートルにわたる都夫良野トンネルが有名。その昔は混雑するトンネルとして有名でした。今は混雑が緩和されて、スムーズに往来できるようになりました。
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読み「つぶらの」
都夫良野と呼ばれるようになった由来は、なんと後醍醐天皇にあるのだとか。
都夫良野地域の山中にある「奥山家古道の都夫良野付近」という案内図によると、後醍醐天皇が都から逃れてこの地に立ち寄った際に見た桜の景色が、南朝が置かれた吉野の都に似ていたことから、「都よ、それ吉野よ」と言ったとか。それで、「都夫れ(それ)良野」→「都夫良野」に転じたというのです。
東名高速道路では、トンネルで通過してしまうので、都夫良野地域を目にしたことがある人は少ないのではないでしょうか。都夫良野は、足柄上郡山北町の山林エリアで、「山北つぶらの公園」という県立公園があります。この公園は、富士山の絶景を望める尾根や子ども向けのアスレチック遊具が人気。年に2回見られるダイヤモンド富士も魅力的です。
また、都夫良野の野背開戸(のせかいと)にある頼朝さくらも有名。天保年間に江戸幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」には、この付近は古来より桜平と呼ばれていたとのこと。そして、その柵は源頼朝が植えたと伝承されているそうです。ただし、実際にはこの近隣に源頼朝が立ち寄ったという記録は残されていません。頼朝さくら周辺は、登山道が整備されており、関東だけでなく富士山も望める絶景スポットです。
神奈川県の難読地名、いくつ読めましたか? いずれの地名もすんなり読めた人は少なかったのではないでしょうか。神奈川県の難読地名には、後醍醐天皇や北条氏にちなんだものもあり、歴史のロマンが色濃く感じられます。今回取り上げた地名以外にも、神奈川県内にはさまざまな難読地名がありますので、見つけたときはぜひ読み方だけでなく、由来や歴史を調べてみてくださいね。