大学へ入学するとアルバイトや友人たちとの遊びに明け暮れる日々が始まった。それでも大手のアパレル関係の企業に入社することができたのは時代が良かったからである。
景気が良かったので、それなりの仕事をこなせば勤務年数だけが背中を押してくれた。しかし、課長のポストに就いた頃に会社は倒産した。
「乳がんだって、私……」
職を失い仕事を探している時の妻からの一言。
その時、彼女は目に涙を溜めながら、薄っすらと笑みを浮かべていた。看護師だった妻にとって、あまりに理不尽な現実に対するやりきれない気持ち、私と香奈に対する罪悪感……複雑に混じり合う気持ちを押し殺すための笑顔だったに違いない。
私は情けなくも弱かった。ただ、目の前が真っ暗になり、何一つ声をかけられぬまま立ち尽くした。
「大丈夫、きっと大丈夫よ」
涙に滲む声-
それは、彼女ではなく私がかけるべき言葉だった。
それから妻の闘病生活が始まった。横浜に嫁いだ香奈も毎日足を運び妻の看病に時間を費やした。私はというと、妻の病気を機に介護や医療関係の機器を取り扱う会社で営業の仕事を始めていた。
「デイジーが見たいな、綺麗で可愛いの……」
やっとの思いで手にしたマイホーム。
ベッドに横たわり窓の外を見ながら妻がか細い声で呟いた。
家を建てる時、花が好きだった妻のために庭に小さな花壇を作った。これまで四季折々の花が庭を彩っていたが、妻が病を患ってからは放ったらかしになり、雑草が生い茂っていたことにその時になって初めて気が付いた。
私は草を抜き、スコップで土を耕した。慣れない作業だったが、最高の花壇を作ろうと何もかもを忘れて没頭した。縁石にぶつけた大切な腕時計の文字盤にヒビが入っていたことを後で知ったほどだった。
ベッド上から見えるデイジーの花-
あの春の日は、今日と同じように澄んだ青空が広がり、緩やかに吹き抜ける風が心地良かった。
「外で見たいな」
私は妻を背中に負ぶって庭に出た。非力な自分を心配したが、そんな心配が全く無用だったと感じるほど、辛く悲しい現実が私の背中を通して十分過ぎるほどに伝わった。
庭の椅子に座りデイジーを眺める妻。
「ちょっと待ってて」
私は急いで寝室へ向かうと、押入れに眠る一眼レフカメラを取り出した。
彼女だけが、私の撮る写真を好きでいてくれた。
カメラに向かって微笑む妻の姿。
こんな素敵な時間に終わりが訪れようとしているなんて信じられなかった。
私は流れる涙をカメラで隠した。
あれから十年の月日が流れる-
「こっちに帰ってこい。老後くらいゆっくりしようぜ」
笹本の言葉をきっかけに、私は生まれ故郷での生活を選択したのだ。
ぽん、と私の右肩に優しく触れる手-
「なぁに哀愁漂わせてんだよ」
「なんでこんな所にいるんだよ」
「時々、孫連れて遊びに来るんだよ」
笹本の指差す方には、小さな二人の男の子の姿があった。
「お前が爺ちゃんだなんてな」
「そりゃ年取るはずさ」
「ここで学んだのが、半世紀以上前だもんな」
「懐かしいな」
「あの頃は悩みなんて無かったよな。毎日が希望に満ちあふれてた……」
笹本が私の横顔を見たのが視界の片隅に捉えることができた。
「綺麗だな、デイジー。これの花言葉は『希望』なんだってさ」
風水とか花言葉とか、彼には不似合いなものばかりだ。しかし、今の私にはそんなことはどうでも良かった。
あの時、妻が見たいと言ったデイジーに込めた思いを今さらながら知った私は、人目も憚らずに慟哭した。
鳥のさえずり、虫の声、雨や風の音-
自然が生み出す音色で目覚める朝はとても清々しい。
「大丈夫さ、どこも悪くない。ご飯もちゃんと食べてるよ」
毎朝八時。娘からの電話が日課となった。距離は遠くなったが、心の距離は近くなったように感じる。
そんな電話と明るい日差しが一日の始まりを知らせてくれる朝、私にはもう一つの日課ができた。
それは「おはよう」などと挨拶をしながら、花壇のデイジーに水をあげること。
腕時計の秒針は確かに時を刻んでいる。
そして、この先もずっと-
これからの人生、私は新たな希望を胸に歩んでいきたいと思うのだった。
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