「変わらないなぁ、相変わらず田舎だ」
「それがここの良いところさ。老後はのんびりと暮らせよな」
「ああ、そうするよ」
駅から車で約十分の道のりは、言葉にすれば近いようだが信号の無い田舎道ではかなりの距離に相当する。
「あの茶色いマンションさ」
笹本が指差す先には田んぼの真ん中にポツリと佇む一棟のマンション。自然豊かでのどかな場所ではあるが、夜にもなれば暗黒の世界が広がり、夏や秋には虫やウシガエルの鳴き声が響き渡るであろうことは容易に想像できた。
「綺麗なマンションだな」
事実、近くで見ても築三年の建物は新築同様に綺麗な外観である。広い駐車スペースもあり一部屋に一台分の駐車場が付いてくるそうだ。「サービス」と言えば聞こえが良いが、一人一台が当たり前の車社会では駐車場が無ければ借り手が一気に減るだろう。最も賑やかな県道五号線沿いにあるスーパーや飲食店へ行くにも不便な場所なのだ。
「よし、到着!」
笹本がサイドブレーキを強く踏んでドアを開けた。
「ありがとな」
「そこの手前の部屋さ」
私の住む部屋は集合玄関から一番近い場所に位置している。窓は南に面して日当たりが良さそうだ。
「お洒落なドアだろ」と笹本が笑うのは色鮮やかな赤いドアである。
「風水によると幸福を招くらしい」なんてガラにもないことを言う。
小さな玄関と居室のドアまでの廊下にはキッチンスペース。その向かいにはトイレとバスルームが並ぶ。
「セパレートだから使いやすいはずさ」
「あぁ、助かる」
八畳の洋室には物が何も無いので広さを感じる。窓を開けるとベランダがあり、その向こうには三畳ほどの専用庭。雑草が生い茂るが、綺麗に整備すれば立派な花壇ができそうだ。これが東京なら十万円を超えるに違いない。それが三万円という破格。私の年金からでも楽に支払いができる。
「十分だよ、本当に良かった」
「あとはボチボチやってくれ。あ、これは俺からの引っ越し祝い」
笹本が手渡したのは自転車の鍵だった。
「電動自転車。車が無いと不便な場所だからさ、せめて自転車があればと思ってな」
「何から何まで助かるよ」
私は自動車の免許を持っていない。これまでの生活において、車の必要性を感じたことはなかったからだ。どこへ行くにも電車や自転車があれば十分だった。
「父さん、もっと早く!」
「これ以上は……倒れちゃうよ……」
妻は看護師だった。夜勤の時などは、よく一人娘の香奈を自転車の後ろに乗せて保育園まで送って行ったものだ。我が家から保育園までの道のりには急な坂道があったのだが、当時は電動自転車などというものは無く、上りきるのに一苦労だった。しかし、街並みを鳥瞰図のように捉えながら風を切って坂道を下るのは、この上ない爽快感だった。まさに鳥になった気分であった。
「用事があるから一旦帰るな。後で晩飯でも行こう」
「ああ、ありがとう」
生活に必要な荷物は昼間に届く予定だったが、到着が予定より大幅に遅れているそうだ。これまで使っていた物は全て処分し、新たに買い直した。心機一転、新しい生活を送りたかったのだ。
腕時計に目をやると、文字盤にヒビの入った時計が一時半を指している。
荷物が届くまであと三時間程といったところ。長旅の疲れを癒すために少し横になって休みたい。しかし、クッションフロアとは言え、腰痛持ちには床で横になるのは躊躇われる。私は無機質な白い壁にもたれると、床に座って足を伸ばした。
何も無く、誰もいない部屋-
昼間だというのに、吹き抜けるそよ風の音すら耳に届きそうな静寂に包まれている。
あの時の賑やかさは少しも感じられない。
「仕事頑張って、もっと広い家に引っ越そうな」
「無理しないでよ。私はこれでも十分だから」