ここまで書いて美幸はペンをとめた。こんな手紙を読んだら太一はもっと怒ってしまうと思ったからだ。それに美幸はこんなことを書きたかったわけではない。とくに後半部分は感情を逆なですることくらいわかっていた。
美幸が本当に書きたいこと、それは別にあった。仲直りしたというだけではない。もちろん仲直りは絶対にしたい。だが一番伝えたいこと、今日、この結婚記念日に伝えようと思っていたことは他にある。
一週間前からそのことは考えていた。友達の千鶴にだってまだ言っていないことだ。最初に伝えなければならないのは、夫の太一をおいてほかにない。美幸は書きかけの便せんを破いてまるめるとゴミ箱に放りなげた。そして立ち上がると家中をゆっくりと一歩一歩確かめるように歩きはじめた。
キッチンの前には四人がけのテーブルがある。その前のリビングには横に長いソファがあり、太一はそこでいつも寝転んでテレビを見ている。ベランダに近い八畳ほどのフローリングの部屋はふたりの寝室になっていてダブルベッドが置かれている。玄関に近い部屋もフローリングでパソコン机が置かれているほかは、ほぼ荷物置き場になっている。本は床の上に平積みされ、棚は空っぽで、太一の趣味のゲーム機やテニス道具などが段ボール箱に入れられたままになっている。クローゼットにはぎっしりと服が詰まっているが、服道楽ではないのでこれ以上収納スペースは必要ではない。あとはバス、トイレ、洗面台、廊下、玄関があるだけだ。
美幸はあらためて家の中を見てまわると、いつも過ごしているキッチン前のテーブルの椅子に腰掛けた。洗濯物がベランダで風にゆれているのがみえる。太一のワイシャツもトランクスも踊るようにゆれている。
この家で夢みた幸せってなんだろう。美幸はふいにそんなことを思い、頭をかいて「ああ、喧嘩なんかするんじゃなかった」と口にだした。
しばらくキッチンに背中をむけて部屋の中を眺めていると、ほぼ荷物置き場になっている部屋で目がとまった。なにかに気づいたように立ち上がった美幸はその部屋に入ると片付けはじめた。きれいに整理整頓をしたかったわけではない。お洒落な部屋にしたかったわけでもない。美幸は平積みされた本を棚に並べたり、パソコン机を移動させたり、段ボール箱から、使わないまま放置されているゲーム機をだして机に設置したり、空の段ボール箱をたたんで、クローゼットにしまったりした。
美幸はこの部屋を太一の書斎にしようとしていたのだ。プレゼントは書斎、太一がひとりで自由につかえる部屋、本を読んだりゲームをしたり、のんびりと美幸の目を気にしないで過ごせる場所。それをプレゼントしようと思ったのだった。
「たまには一人で過ごしたいときもあるんだよ」
と、以前太一が夕食の時言っていたのを思い出したからだ。わたしだって一人で過ごしたいときもあるのよ、とそのときは答えたと思う。2LDKしかない住まいであまり贅沢なことはいえないとわかっていたので、それ以上話が膨れることはなかったが、仲直りのためにも、そしてこれからも仲良く過ごしていくためにも太一に書斎をプレゼントするつもりだった。喜ばないわけがない。この頃は仕事で疲れている日も多いし、書斎があればゆっくりとくつろぐことができるようになるだろう。