わたしは息子のまるい頭に手を乗せてなでたが、息子はなにも言わずに土を指先で掘りはじめて、あいた穴に餌の容器を突っ込んだ。どうやらそれで満足したらしく、得意げに小さくにやつきながら、勝手に手を合わせて目をつぶった。まったく、とわたしは思いながら、同じように手を合わせた。けれど目は閉じず、容器と、岩と、トルくんが眠っている部分を見つめながら、祈るべきことを考えた。
棺に入れるわけでもなく、裸のまま埋められたカメの体は、たぶんとっくに土に還っていることだろう。そのおかげか、辺りに撒かれた餌のおかげか、この庭の片隅は他より輝かしく目に映る。わたしはこの場所に、死というものと、そこから続く生きものたちの営みのことを思う。たくさんの生きものがこの庭には存在しているのだ。夏に向かって気温を上げる土の上にはもう、アリやミミズの姿を見ることができる。モンシロチョウがフェンス代わりの植木の横を飛んでいたり、旅する小鳥が物干しざおにとまって休んでいたりする。目に見えない土の中でも、夏に出てくる虫の幼虫が外に出るときを心待ちにしていることだろう。そういう生きものたちのことを、わたしが実際に触れ合ったりするのは遠慮したいところだが、生と死という観念のうえで想ってみるだけならば、正しいことだと思える。心がほんわかとしてくるのだ。
息子はじいっと目をつぶり、なにごとかを祈っていた。なにを祈っているんだろう、とわたしは思った。もともと、ほかの子と比べれば大人しい性格だが、それでもこうしてなんにもせずに居続けられるという事実が、わたしとしては新鮮だ。大きくなっていくんだな、とわたしは思った。勝手気ままに動きまわったり、大声で泣いたり、ランドセルや誕生日プレゼントをもらってぴょんぴょん跳ねていたような、子供時代は徐々に去りつつあるんだ。生きものの死に直面して、時間が経って、このことについて自分なりの立場をもった息子は、またわたしの知らない一面を見せてくるようになるのだろう。
たった半年だ。これが子供の成長速度なのか、死というものがもたらす作用なのかはわからない。わたしがわかるのは、この日を覚えているかぎり、息子は変わり続けるんだ、ということだけだ。
わたしの黙考は、気づけば祈りに変わっていたようだ。息子に声をかけられて気がつけば、わたしは目をつぶって、手を合わせて、トルくんの岩に向かって頭を下げていた。
「終わった」と息子は言った。
「終わった?」とわたしは聞いた。
「お参り、もういいよ。お腹すいた」
息子はひとりで立ち上がり、軽い足取りで家に向かった。わたしはその後ろ姿を見ながら、勝手なものだと思った。勝手にどこかへ行って、勝手に自分の意思を持って、勝手に大人になっていくのだろう。勝手、勝手。まあ、好きにすればいいだろう。結局わたしにできることなんて、その後ろ姿を見守っていることだけなのだ。どこまでも、しっかりと、見失わないように目を見張って。
でも、わたしはちょっとだけ目を逸らして、ほんの少しだけ、また手を合わせる。それは弔いのための祈りなのか、生きるものの今や未来のための祈りなのか。たぶん、どちらもあるのだろうとわたしは思う。
あの人が仕事で出て行って、そろそろ一年が経つ。
こちらに戻る用事ができたので、数日間だけ家で過ごすことができるとあの人は電話で言う。うん、待ってる、とわたしは言う。嬉しさもあるけれど、煩わしさも同様にある。たぶんまた、一家であちらに引っ越さないかという提案がされることだろう。
それはそれとして、わたしとしてはできれば、あの人が戻ってくる日と、トルくんのための日が重なっていればいいと思う。
息子はきっと、また朝早くに起きるだろう。わたしを起こしにくるのと同じように、あの人も起こせばいい。トルくんを息子に買い与えたのはあの人だが、トルくんが息子とわたしの心にまだ生き続けていることを、あの人は知らない。知ってくれればいい。実感してくれればいい。誰でも人は、変わり続けるのだということを。わたしたちを繋ぎとめる、変わらないものを見つけるためにも、変わっていくものを知ることは、とても大切なことなんだということを。
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