食堂の出窓に置かれた水槽には三匹のメダカが住んでいる。その子たちに餌をあげることが私の日課であり、唯一の役割なのだ。
「メイちゃん、ダイ君、カー君おはよ」
ここで私を必要としてくれているのは、この子達だけ。
「金魚かい、それ?」
背後からの声に、左手に持った餌の容器を落としそうになった。
「あぁ、サヨ子さん、おはよう」
「やぁねぇ、サヨちゃんよ。サヨ子さんだなんて恥ずかしい」
「ごめんなさい、サヨちゃんね」
花柄の黒いワンピースの上に羽織った赤いカーディガン。百五十センチ足らずの小さな体にパッチリとした大きな瞳とおかっぱ頭。彼女の精神年齢は子どものようだが、その見た目と言動に大きな違和感は無い。
「あなた、お名前は?」
「私は北本、北本ユキよ。ほら、お隣の」
「そんなこと、いちいち覚えてないわよ。ユキちゃんね、よろしくね」
不思議と悪い気はしなかった。むしろ、私は心に温かいものを感じていた。
桜の家での生活は半年を過ぎようとしていた。サヨちゃんと出会って三ヶ月。一人寂しかった散歩の景色は鮮やかな色を帯び、日々の暮らしに楽しみを感じられるようになった。
彼女と過ごしていると驚かされることが多い。道端に綺麗な花が咲いていると平気で摘み取り、石ころを見つけると思いっきり蹴飛ばし、本を読む時は大きな声に出して読み上げ……彼女は、まるで本当の子どものように純粋だ。
しかし、ホームにはサヨちゃんを良く思わない人もいて、陰口を言ったり蔑んだ目で見ているのがよく分かる。そんな時、私が「ゴホン」と咳払いをすると、彼女たちはまるで違う話をしていたかのように振る舞うのだった。
サヨちゃんは「風邪? 大丈夫? マスクしないと」と我が道を行く。私はくすりと笑い「大丈夫、治った」と人差し指と親指で丸を作ってサヨちゃんに向ける。
お盆を目前に迎える頃、ホームで事件が起きた。
同じ二階に住む川上さんの財布が無くなったというのだ。ただ無くなっただけなら大ごとではないが「財布を盗られた」とその矛先がサヨちゃんに向けられていることを知ったのは、やはり小森さんからの情報だった。
「川上さん、吉岡さんのことを犯人に違いないって決めつけてるわ」
「どうして、そんなことが言えるのかしらね」
「気に入らないだけじゃないのかな」
「だからってね……」
私は空を見上げた。庇が太陽を遮り日陰を作っているとはいえ、身にまとう空気はねっとりとして暑い。
私は体にまとわりつく熱気ともやもやとした気分を居室へ持ち帰ると、倒れ込むようにベッドに身を委ねた。
川上さんはボスのような存在だ。なにせ口が立つからみんな彼女には気を遣っている。
はじめの頃はその意味が理解できなかったが、川上さんが気に入らない入居者の悪口を言ったり、きつい言葉を直接浴びせる様子を何度も目にして納得した。まるで、漫画に登場するガキ大将だ。友情や愛情で結び付いていない関係性は虚しいが、いくつになってもそうゆうのってあるのだな、と少し距離を置いて見ている。
所詮、みんな大人の仮面を被った子どもだ。
川上さんのサヨちゃんへの疑いは瞬く間に入居者中に波及し、あからさまにサヨちゃんを敬遠する様子が窺えるようになった。
「いやぁね、泥棒が同じ建物にいるなんて」
「警察に届ければ良いのにね」
そんな会話があえて私の耳に届くようにして繰り広げられるようになった。
毎日そんな会話を聞かされていると、さすがにうんざりしてくる。サヨちゃんと仲良くしている私の言動全て監視されているような気分にさえなる。それでも中には「誰が犯人かなんて分かりもしないのにね」と声をかけてくれる人もいるが、誰もいざこざに巻き込まれたくないので声をあげようとはしない。
幸いなのは、サヨちゃんが何ら変わらぬ日常生活を送っていること。
「ユキちゃん、散歩行くよ!」
「はいはい、ちょっとお待ちを」
夏になってからは、暑さを避けるため朝早い時間に出掛けるようになった。私達の生活で変わったことは、ただそれだけ。それ以外に何も変わることはない。