「この子、よく家の前に居ますよね」
「え?」
「いや、よく見るんです」
僕は鈴木さんの方を見ると、前に会った時とは全く違う印象を受けた。グレーのスウェットではなく、緩めのネイビージーンズに白シャツ。シンプルな服装だったが、とても似合っていた。以前の無愛想な感じではなく、ねこ助のおかげだろうか、柔らかい笑みを浮かべている。
「あぁ、そうですね、僕もよく見ます」
「かわいいですよね」
突然始まってしまった会話に困惑してしまい、また僕はねこ助の方に目を向けた。最初の挨拶が良いものでなかったから、なんとなく恥ずかしいような気がしたからだ。
「そういえば、お菓子、美味しかったです」
「ほんとですか、よかったです」
「なんか、あの時はすみません。寝起きで機嫌良くなくて」
「いえいえ、こちらこそ」
「六花亭、でしたっけ。あれすごい美味しいですね」気持ちのいい笑顔を見せる人だった。
「そうなんです、北海道のやつなんですけど……」
僕が言葉を続けようとするのを遮って、鈴木さんは思い出したように言った。
「そういえば大学が同じなんですね。大家さんから聞きました」
「鈴木さんは3年生、でしたっけ?」
「そうです」
「じゃあ、全然、敬語とか大丈夫ですよ」
「あ、ほんとに? じゃあ敬語やめるね」
彼女は笑いながらそう言った。
「水上君も敬語じゃなくて大丈夫だよ、私あんまり気にしないし」
「あ、いや、僕は年上の人にタメ口ってのが苦手で」
「あ、そうなんだ」
「野球部だったんで」
「へぇ。あ、あくびした」
彼女はねこ助の方を見て言った。僕も彼の方を見ると、眠いのだろうか、大きいあくびをしていた。
「猫もあくびするんだね」
「そう、ですね」
「私はこの子、みゃあこ、って呼んでるんだけど」
「そうなんですか、僕は、ねこ助って呼んでます」
「え、オスなの?」
「いや、分からないですけど」
「でも三毛猫って、メスしかいないらしいよ」
「そうなんですか?」
「そうなんだって。オスもいるにはいるけど、レアなんだって」
「へぇ……」
自然と会話が無くなり、無言の時間が流れたが、それは心地の悪いものではなかった。会話がない時でも、2人でじっと猫を見つめる、それだけで穏やかな時間が流れている気がした。ねこ助はこちらを全く気にせずまどろんでいる。
ふと、サークルの先輩がタバコのことを「あれはコミュニケーションツールだ」と言っていたことを思い出した。どうやら、無言の間でもタバコを吸ってると違和感がないらしい。僕はタバコを吸わないので分からないが、きっとこういう感覚なんだろう。
「そういえば、うるさくない?」
鈴木さんが思い出したように言った。
「ほら、ここって壁薄いじゃない? たまに友達とか彼氏とか来た時にうるさいかなって」
「全然、大丈夫です」
「そう? 良かった」
彼氏さんが居るのか。僕は心の中で呟いた。別に一目惚れしたわけでもないけど、少しばかり寂しさがやってきた。たった数分話をしただけなのに、僕は鈴木さんに恋心の萌芽を感じていたことに気づいた。でも好きになる前で良かったかもしれない。好きになってから失恋してしまうより、今が少し寂しくなる方がいいだろう。
それから、他愛のない会話をした。出身地や大学の話。鈴木さんとは音楽の趣味が近いことを知り、その話でも盛り上がった。時折、会話が途絶えては再開して、30分ほど経ったくらいだろうか。
「それじゃあそろそろ、戻るね」鈴木さんは大きく伸びをしながら言った。
「あれ、どっか行くとかじゃなかったんですか?」
「いや、家の前でぶつぶつ声が聞こえたから出ただけだし」
ねこ助に聞こえる程度の小さい声で話したつもりだったが、どうやら聞こえてたらしい。
「聞こえてたんですね。すみません」
「んーん。挨拶のお土産も言いたかったしね。話せて良かった」
「あ、僕も話せてよかったです」
もう少し話したい、と思った。はじめて緊張することなく、女性と話せた気がする。そんな思いもあってか、僕は変なことを言ってしまった。
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