ある日のことだった。普段はキッチンで仕事をしていたが、その日はホールの仕事を任されることになった。お客さんの注文を聞き、料理を提供する。バイトを始めた時に、どちらでもできるように、ということで一応は一通りの仕事は覚えたが、数週間ぶりだったこともあり、ピークの時間になると僕は仕事を捌くことができなくなってしまった。同僚は幸いにも優しい人が多かったから、怒ることもなく僕を助けてくれたが、店長はいつものように苛立ち始めた。
そして僕はついに、お客さんの注文を間違える、という店長が一番嫌いなミスをしてしまった。その時は忙しかったため何も言われなかったが、業務を終えて店が閉まった後、ロッカーの前で服を着替えている時に、店長は僕の前まで来て言った。
「お前さ、いい加減にしろよ。注文ミス」
「あ、すみません」
「何度言えば分かるんだよ。前にも同じことしてたよな」
このバイトを始めて間もないころに一回、小さなミスをしただけだ。
「はい」
「お前良い大学行ってお勉強してるんだろ?」
お勉強、という言葉がやけに不快だった。
「だったらバイトのこともちゃんと勉強してくれよ。なぁ、お前の存在がみんなにとって迷惑になるんだよ」
みんな、は一体誰のことを指してるのだろうか。
「分かってんのかって聞いてるんだよ」
店長は、持っていた黒のボールペンを僕の手の甲に叩きつけた。
「いって……」
咄嗟に口から出てしまった。
その時、店長の眼差しがいつもの、あの冷たい目と違うことに気づいた。少し驚くように、いつもより大きい目をしている。それと同時に、自分が店長を睨んでいることにも気づいた。
それは初めての、ささやかな抵抗だった。普段していない仕事で怒られ、しかもボールペンで叩かれたことに、僕は無意識で怒りを覚えたのだ。一瞬の間が生じた。やけに換気扇の音がうるさく聞こえた。
店長は一瞬たじろいだが、少しするとまたいつものような冷たい目で僕を見て怒り始めた。僕はそれを聞きながら、はじめて目上の人に抵抗した、という事実に不思議な高揚を感じていた。その日の説教はいつもより短かった。
怒られる、ということは何度も経験しても慣れることができず、勤務を終えて自転車で帰ってる途中も憂鬱な気持ちがつきまとった。クヨクヨと悩んでしまう性分で怒られるのが苦手なため、こうしたことは長いこと尾を引くように、僕の悩みの種になってしまう。いつもより自転車が重い気がする。油が切れてきたのか、チェーンは嫌な音を立てていた。
普段なら10分程度で帰れる道なのに、20分ほどかけて、僕はアパートの駐輪場に自転車を停めた。
玄関の前まで行くと、そこにねこ助が居ることに気づいた。僕は部屋に入らず、眠たげなねこ助の隣で、彼に話しかけた。
「ねこ助、聞いてくれよ」
彼はいつものように、ぴくりと耳を動かしただけだった。
「今日バイトで怒られちゃってさ」
理解できるわけもないし、そもそも聞いてるのかも怪しい。それでも僕は続けた。
「辞めようかな、とも思うんだよね。どう思う?」
もちろん返事はない。
突然、猫に真面目に話しかける自分が恥ずかしくなり、僕は喋るのをやめた。何かを考えるわけでもなく、じっとねこ助を見つめている。
突然、ドアが開く音が聞こえた。隣人の鈴木さんが部屋から出てきて、僕は一瞬だけ目線を合わして、小さな声で挨拶した。コンビニにでも行くのだろうか。そんなことを考えていると、部屋から出た鈴木さんが、そこから動かないことに気づいた。もう一度、鈴木さんの方を見ようとしたが、そうしてしまうと会話が始まる気がして、あえてねこ助を見続けた。私はあなたと会話をするつもりはない、という意思表示だ。こうすることで、会話ができない、のではなく会話をしたくない、と他人に示すことができる。臆病者だとは思うが、これが僕の防衛線みたいなものだ。
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