【ARUHIアワード10月期優秀作品】『四つ葉のクローバー』ウダ・タマキ

「喜びも寂しさも全てが良い経験ね。若いって素敵なことよ。頑張って」

 その優しい一言が私の背中を強く押した。
 そう、私はこれからの人生でいろんなことに直面するだろう。楽しいことだけではなく、辛いことや悲しいことにも。
 私は思いっきり深呼吸をして、山の新鮮な空気を体中に詰め込んだ。

 唯一、この生活で私に足りなかったものが満たされることとなった。待ち侘びていた海を望むカフェである。
 山を越えて市街地へと続く県道7号線。その道沿いにカフェがオープンしたのだ。この道は休日ともなると、ツーリングやサイクリングを楽しむ人が多い。経営の素人ながら場所としては最適だと思うけれど、平日や気候の悪い季節などは大丈夫なのだろうかと余計なお世話ながら心配をする。しかし、そんな心配は無用だった。マスターは高校の教師をリタイアした沙矢子さんという女性。売上なんかは二の次で、独身生活で蓄えたお金を活かし余生を有意義に過ごすためのものだそうだ。
 「景色の良い場所にカフェを持つのが夢だったの」と上品な口調で語る通り、ここからはまるで鳥瞰図のように街と海が一望できる。空と海の境界線さえ曖昧で、船が空を飛んでいるような錯覚さえ覚えるのだ。
 「素敵ですね」と返す私の言葉には一切の偽りもお世辞も存在しない。特に素敵なのは夕陽が沈む頃。私は学校の帰り道に立ち寄っては、海を眺めて物思いにふけた。
「良かったら、アルバイトしない? そんなに時給は出せないけど」
「もちろんです!」
 まさかのお誘いに私は迷うことなく即答した。
 私の大学生活は思い描いていたものより遥かに満たされたものとなった。ホームシックも無くなり、帰省するのはお盆と正月の年に二回ほど。それほどこの街は居心地が良いのだ。

 そんな幸せな生活に突如として訪れた母からの一報―

「ばあちゃんが倒れたの、帰って来れる? 脳梗塞だって」
 滅多に連絡の無い母さんからの電話に嫌な予感がして、アルバイト中に慌ててとった電話だった。あまりの衝撃に耳に当てたスマホが滑り落ち、床に激しく衝突した。その音で我に返った私は、涙を流して沙矢子さんにばあちゃんのことを告げた。
「いいから急いで帰りなさい!」
 そう言うと沙矢子さんは手早く私のエプロンの紐をほどいた。
 私は飛び出るようにして店を後にし、急いで原付にまたがり駅へと向かうとタイミングよくホームに停車していた電車に乗り込んだ。
 車窓を眺めてはいたが、景色など見えていなかった。思い出すのは、ばあちゃんの顔と声ばかり。どうか生きていてほしい、その一心で焦る気持ちを必死に押し殺していた。
 村の隣町にある総合病院の病室。ベッドに横たわるばあちゃんには点滴の管が繋がり、ポツリポツリゆっくりと液体が落ちている。
「ばあちゃん……」
 私は声にならない声を振り絞りばあちゃんに駆け寄ると、その細い手を力一杯握りしめた。
 「よく帰って来てくれたな」と父さんが私の頭を撫でた。
「まだ意識が戻らないの」
 いつも明るい母さんの声さえ沈んでいた。
「死んじゃうのかな……」
 まるで無知な幼い子どものような私の質問に、父さんも母さんも何も答えられなかった。
 その日、私はベッド脇に置かれた座面の硬い丸椅子で一晩を過ごした。気付いた時には夜が明けていたが、ばあちゃんには何の変化も起きていなかった。
「少し、家に帰って寝ておいで」
 私は母さんの顔を見ることなく頷くと「じゃあね」と、ばあちゃんに声をかけて病室を後にした。
 ポツンと寂しそうに佇むバス停でバスを降りると、私は川沿いの道を歩いた。

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