【ARUHIアワード10月期優秀作品】『おたんじょうびおめでとう』万野恭一

 引っ越して来た日の夜、まだ開封されていないダンボールがたくさん残るリビングで彼女は不意に泣き始めた。「引っ越したくなかった」と言いだしたのだ。
 前のアパートから新居までは、三、四百メートルしか離れていなかった。アパートが手狭になったというだけで、私も美花も緑の多いこの辺りの環境は気に入っていたのだ。百花や千花も、せっかく慣れた学校や保育園から移動させるのは忍びない。私達夫婦は、子供たちの学区が変わらない範囲内で建て売りの一軒家を探し、この家を見つけたのだ。
 前と変わらず仲良しのお友達とも遊べるし、お気に入りの公園にだって歩いて行ける。それなのにどうして?私は千花に聞いた。
「窓からあじさいが見れなくなるから。それに、優しいおじさんとあんまり会えなくなるから」
 彼女はとつとつと答えた。二つある和室のうちの一つ、リビング代わりとして使っていた部屋の窓の下には、たくさんのアジサイが植えられていた。梅雨の花盛りになると、千花は出窓を机替わりにして、よくアジサイの絵を描いていた。彼女はアジサイを、その窓から見える景色をとても気に入っていたのだ。
 優しいおじさんとは、お向かいで一人暮らしをしていた山田さんの事だろう。年配の山田さんは、百花と千花を実の孫の様に可愛がってくれた。公園で遊んでくれた事もあったし、ミカンやお菓子をくれる事も度々だった。百花も千花も山田さんの事が大好きだったが、小さい千花はより彼になついていたのだ。
 千花の気持ちは理解できた。百花と彼女にしてみれば、生まれた時からずっと暮らしてきた家なのだ。あじさいや山田さんの事に限らず、私や美花と一緒に入った風呂おけや、彼女がべたべたにシールを貼ってしまったふすまや、自分と百花の身長が刻まれた柱など、あの家には数えきれない程の思い出が詰まっているのだろう。
 私だって、美花と二人だけの頃から過ごした家と別れるのは寂しかった。けれど、私にはマイホームを構え、そこで新しい生活を迎える方が、より皆が幸せになれるという確信があった。だからこそ、私は三十五年のローンを組み、一生を賭した買い物をする気になれたのだ。
 事実、家が前よりもずっと広く、新しくなった事を、美花と百花は心の底から喜んでくれていた。
「じき、慣れるわよ」という美花の言葉通り、引っ越してから一か月ほどで、千花は「前の家に帰りたい」とは口にしなくなった。けれど、彼女は、文字通り「慣れた」だけの話であって、この新しい家を受け入れられずにいるのではないだろうか。今日に至るまで、私は心のどこかでそういう不安を抱え続けていた。
 その千花が今日、この家の「誕生日」を祝った。「いつもありがとう」とも記した。
 私は一年間怖くて口に出来なかった言葉を、意を決して千花に投げかけた。
「千花ちゃん、この家好き?」
 千花は不思議そうに私を見上げたかと思うと、すうーっという音が聞こえるほどに思いきり息を吸い込んだ。
「大好き!」
 その瞬間、私は目の奥がキュンとしびれて、たちまち千花の姿がぼやけた。私はたまらず家の方を見上げて言った。
「良かった。お父さんも、今日やっと大好きになれたよ」
 気が付くと、いつの間にか百花も二階のバルコニーに出ていた。美花と並んでニコニコとこちらの様子を眺めている。
 そうだ。遅くなってしまったけど、お世話になった山田さんをこの家に招待しよう。そして、子供部屋の下にはたくさんのアジサイを植えよう。
 私には、また叶えたい夢が出来てしまった。

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