千花は庭の中央まで進むと、くるりと振り返り、仰ぎ見るようにして「お誕生日おめでとう!」と叫んだ。
「・・・・・・え?」
千花は一体誰に向かって叫んだのだろう。彼女の目線の先には、我々の住む家しかない。その時、千花の手にする絵が、ふと私の目に入った。そこには、既に描かれていた私達家族に加え、その周りを囲うように枠線が足されていた。台形と正方形を縦にくっつけたような枠線。私は瞬時にひらめいた。家だ。家であっている。
美花でも無く、百花でも無く、私でも無く、千花はこの家の「誕生日」を祝っていたのだ。確かに我々一家は、一年前の今日、この家に住み始めた。私はもちろん、美花と百花もあまり意識していなかったその日を、千花だけが明確に記憶していたのだ。
二階のバルコニーでは、美花が鼻歌交じりで洗濯物を干している。午前の爽やかな陽光を浴びながら、ゆったりと、けれど滞ることなく作業を進めていくその姿は、まるで踊っているかの様に優雅だ。美花は私が見ている事に気付くと、照れくさそうに「フフ」と笑い、首をすくめた。
彼女が洗濯物を干す時に鼻歌を歌う様になったのは、この家に引っ越して来てからだった。前に住んでいたアパートのベランダは、六畳間一部屋分の幅しかなく、とにかく狭かったのだ。百花、千花の両方が保育園に通っていた頃などは、二人とも一日に何度も服を汚して着替えるので、洗濯物は凄まじい量になった。物干し竿だけでは足りず、ベランダの手すりまでびっしりとピンチハンガーで埋まる中、美花は毎日、時にはイナバウアー状態になり、時には老婆の様に腰を丸めて必死に洗濯物を干していたのだった。彼女が発していたのは鼻歌などではなく、「うっ」とか「イテテ」という、うめき声だった。
感慨深い気持ちで美花の様子を眺めていたら、家の中から「ドッドッドッ」という足音が響いてきた。百花が階段を駆け上がったのだろう。
「百花、走ったらダメよ」
美花が良く通る声で、家の中に向かって呼びかけた。もちろん、足を滑らせたりしたら危険だからだ。
前の家では、美花だけではなく、私ももっと鋭い声を出していた。
「静かに!」
「何回言われたら分かるの!」
私達はアパートの二階に住んでいた。子供達が危険だから、というよりも、私達はむしろ下の階へ迷惑をかけないよう、神経を尖らせていた。アパートの住人は私達のようなファミリーばかりでは無い。年配のご夫婦もいれば、若い人の一人暮らしもいる。幸いにして、私達は退去するまで一度も下階の住人からクレームを受ける事は無かったが、同じアパートに住み、やはり私達の様に小さな子供のいる知人家族は、足音がうるさいという理由で下階の住人とトラブルになっていたのだ。
この家は一軒家なので、足音で他人に迷惑をかける心配は無い。引っ越してからというもの、私達は下階の住人への気遣いから解放され、また、子供達も、私達の怒声から解放されていた。
この家に来て良かった事はそれだけじゃない。百花と千花には、ちゃんとそれぞれの部屋があるし、料理好きでお喋り好きの美花には、対面式で前よりもずっと広くなったキッチンがある。庭を持ち、家族全員の念願だった、犬を飼うこともできた。
全員が喜び、全員が前よりもずっと幸せになるはずだったのに・・・・・・千花だけは違った。