「え?」
帰り際、マスターに思いもよらない誘いを受けて、サトミは戸惑ってしまった。
「あっ、いや、ほら、去年初めていらしたときに、たしか翌日が誕生日だって、伺ったから……」
マスターがカレンダーをちらっと見やる。サトミは頷く代わりに、子どもたちの顔写真が印刷されたキーホールダーをとっさに鞄の奥へ押し込んだ。
「お子さんたちもどうぞ。ぜひ連れていらしてください」
どうやら、バレていたようだ。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
かしこまってお礼を言うと、しんしんと降り続けるまぶしい銀世界の中に飛び出した。愛する子どもたちの元へ、一直線に駆けていく。
あくる週の水曜日、サトミは仕事帰りに保育園に寄ると、幼い子どもたちの手をぎゅっと握って、喫茶店に向かった。キャメル色のニットワンピースに身を包み、スカーフを巻いて、いつもよりおめかしをしたつもりだ。
「ほうら、着いたよ」
「わーい、わーい」
重厚な茶色い扉を押し開けると、マスターが待ってましたとばかりに近づいてきた。
「ようこそ、いらっしゃいませ。あちらにお掛けくださいませ」
「わあ、すごーい」
「ママ、見てー。この窓、とってもかわいいね」
サトミが何か返事をするより前に、子どもたちがはしゃぎだした。
「あんまり騒いじゃ、ダメよ」
あわてて注意すれば、マスターが陽気に笑い飛ばす。
「だいじょうぶですよ。本日は貸し切りですので、ご自由にどうぞ」
「やったねっ」
「ねえ、ママ、みてみてー」
腕を引っ張られてこぢんまりした店内を見回してみれば、この日のためにいろいろと準備してくれたようだ。雪だるまや氷の結晶のシールが窓にペタペタ貼られて、風船が宙にプカプカ浮いている。テーブルの花瓶に活けられているのは、アマリリスだろうか。
「ああ、いい香り」
サトミはすっと目を細めた。そこに、ごちそうが次々と運ばれてきた。
「さあ、お祝いしましょうか」
マスターが目の前に座って、シャンパングラスを傾けた。
「ママ、お誕生日おめでとうー」
「おめでとう!」
わいわいがやがや囲む晩餐は、いつになく賑やかだ。
「このステーキ、おいしいね」
「ほんと、柔らかくって、とってもおいしい」
テーブルにずらりと並べられたお皿が、どんどん空になっていく。
(こんな楽しい時間が、ずっと続けばいいのに)
サトミは心の中でぼそりと呟いた。と同時に、リクが母親の気持ちを代弁するかのように、大きな声をあげた。
「お兄ちゃんのオムライス、最高だね。毎日こんなにおいしいご飯が食べられたらなあ」
「うんうん。そしたら、幸せだよねー」
娘のリホも大きく頷く。すると、マスターが朗らかに言った。
「ぼくでよかったら、いつでもご飯をつくりますよ」
「やったあー」
「バンザーイ」
無邪気に喜ぶ子どもたちのとなりで、サトミも柔らかい笑みを零した。
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