隆夫はパンパンに膨らんだ水玉模様の浮輪をユカに渡しながら言った。ママ、トンボみたい、とユカがけらけら笑っている。有美はトンボの眼鏡は黒色メガネ、と歌ってサングラスを隆夫に放り投げて、右目でウインクしてみせた。やっぱりいい女だ、と隆夫は思った。
「夏が終わるまで、一緒に暮らさない?」
「夏が終わったら、どうなるの?」
「さあ」
「髪、結んで。あたし、あんたと結婚するならこの髪、切る」
有美のうなじからシャンプーの香りがした。隆夫は長い髪を何度も撫ぜ、ポニーテール
にした。
「夏が終わっても、一緒にいよう」
「よく、言うわ」
ビーチパラソルから3人は飛び出した。足裏が焼けるように熱かった。日差しが容赦なく降り注いで、隆夫たちを包んだ。今頃、チャーリーは水をたっぷりと飲んでいるだろう。キンクマくんは回し車で走り回っているだろう。
冷たい海水で全身が敏感になっている。ユカが海をなめて、しょっぱい、と叫んだ。隆夫と有美は、ユカを真ん中にして手をつないで、海の上に仰向けになった。
波は穏やかで空は青かった。隆夫は太陽が眩しくて目をつぶった。緑色の光が瞼の薄い皮膚を通り抜けてきた。
隆夫は仕事を辞めようかな、と考えた。この二人とあの二匹を養うには今の工場じゃ無理だ。それに工場長の怒鳴り声を聞くのも飽きた。かといってやりたい仕事なんてなかった。
隆夫はユカの手を強く握った。ユカも呼応して強く握り返す。二人で笑った。有美も仲間に入れてよ、とむっとしてユカの手を強く握る。
もうじき、オレたちは家族になるんだ、と隆夫は思った。潮の香りも、浜の若者たちのバカ騒ぎも、何もかもが心地よかった。
堤防に上がった。夕焼けが美しかった。浜風がいくらか涼しくなった。有美は釣り人に話しかけ、糸切りバサミを借りてきた。
「どうした?」
「見てて」
そう言って、有美はポニーテールをほどいた。髪を左手に束ね、うなじあたりからハサミを入れる。ためらいもなくばっさりいった。
釣り人が、豆アジ三匹分くらい切ったな、と笑った。
有美も笑って、左手に残った髪を海に放り投げた。髪の毛は浜風に乗って消えていった。
有美の元旦那が、隆夫たちが同棲し始めたと知って、アパートに押しかけて来た。
九月下旬だというのに、暑い夜だった。元旦那は玄関先で、有美をまだ愛していることを、下を向きながらぶつぶつ言った。隆夫は後ろの有美を見た。ユカを抱きしめながら震えて泣いていた。
二人は近くの公園に場所を移した。
夜の公園のぼんやりとした水銀灯に、彼の顔が浮かんだ。真っ白だった。酔うと必ず顔が赤くなるはずだが、今日はシラフだったのか、と思った。
言いたいことがあるなら、オレの目を見ろ、と隆夫は言った。
「さっき、ちらっと有美が見えた。なんであんな髪型にした? 長いのが僕は好きだったんだ」
怒りがこみ上げた。衝動的に彼の胸ぐらをつかんでいた。
「いいか、あいつの髪は、おまえを楽しませるためでも、客を楽しませるためでもない」
隆夫は強く握った拳を振り上げた。おびえる彼の目が見えた。こいつは有美を所有したがっている。心が熱くなった。
彼が顔を背ける。弱々しい顔だった。
隆夫は彼から手を離した。彼はうなだれながら、すみませんでした、と小さく言って帰って行った。