「姉さん、この家も古くなってきたから近くのマンションに引っ越そうよ」
「マンションなんて嫌よ。古くてもいいじゃない、私は死ぬまでここに居るから」
「でも、ずっとここには居れないのよ」
「何バカなことを。じゃあ、あんたが行けばいいじゃないの」
「すぐ近くへ行くだけでしょ」
「あんた、姉さんにその口の利き方はおかしいわよ」
ただでさえフラつく足元が、怒りでさらに不安定になった。お袋はそれでも伝い歩きで庭へ出ると、いつもの椅子に腰を下ろした。
「こりゃ、参ったな」
兄が腕組みをしながら溜め息を吐いた。
「私じゃ無理ね。昔から姉さんは頑固だから」
疲れきった表情を浮かべた叔母はソファに身を預けた。
窓の外に見えるお袋の顔は、どこか寂しそうだ。ある日突然、長年住み慣れた家を出るように言われたら誰だって辛い。
「俺が話してくる」
俺はお袋の隣に腰を下ろして同じ視界を感じた。穏やかな風が庭の草木を揺らしている。
「いつも、ここから何を見てるんだ?」
「何も見てない」
「じゃあ何してるんだ、毎日」
「何って、待ってるのよ」
「待ってるって何を?」
「よっちゃんとやっちゃんが元気に学校から帰って来るのを待ってるのよ」
お袋は目尻のシワをさらに深くして微笑んだ。
「そっか……」
お袋はただ何もせず佇んでいたわけではなかった。俺たち兄弟が子どもの頃、こうして学校からの帰りを待ってくれていたことを初めて知った。寒くても、暑くても、子を思う気持ちは何事にも屈しない。
「母さん、ただいま」
俺はお袋の顔を見つめた。
「あら、やっちゃん。おかえりなさい」
この歳になって、お袋から頭を撫でられて……この歳になって、何も親孝行ができてないことに気が付いて……この歳になって、やっと子を思う母親の気持ちを知って……
「今日の晩御飯は何にしようかしら」
「たまには外食しようか」
「いいわね、じゃあ着替えなくっちゃね」
お袋の無邪気な笑顔を奪う理由は何も無かった。
突如として始まったお袋との生活は、どうやらこの先も続いていきそうだ。
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