少し汗ばむような陽気の日、俺はお袋にある提案をした。
「暑くなる前に、日帰り旅行でも行こうか」
「あら嬉しい。靖君が旅行に連れてってくれるなんて」
「どこへ行きたい」
「そうねぇ。浜浦の海が見たいね」
「浜浦って、すぐ近くじゃないか。せっかくだからもっと良いとこないのか」
「いいのよ、だって長く行ったことないのよ、私」
「そっか。分かった。じゃあ、週末に行こうか」
「嬉しいね。何を着て行こうかしら」
お袋はまるで子どものように喜んだ。
兄貴に借りた車でお袋と海へ向かった。窓から海が見え始めると、お袋はまるで子どものように「うわぁ」と感嘆の声をあげた。
「綺麗ねぇ」
陽光を受けた海面は、いつも以上に輝いているように見えた。
「もっと近くで見てみたいなぁ」
「了解、ちょっと待ってな」
防波堤が続く道路脇の駐車スペースに車を停めた。コンクリートの隙間からは間近に海が見える。
「降りていいかな」
「ああ」
大きな青い海、澄みきった青い空は境界線が曖昧で遠くに浮かぶ舟が、まるで空を飛んでいるかのように見える。
「気持ちいいなぁ」
デイサービスに通う効果もあり、短い距離ならば介助で歩くことができるようになった。お袋は丸くなった背中を目一杯伸ばした。
「お父さん釣りが好きで、デートはこの辺りの海ばっかり」
「だから浜浦に来たかったんだな」
「そう、思い出がたくさんよ」
「どんな思い出だ?」
「そうねぇ。昔ね、子どもがここで迷子になったことがあったの。すごく泣きじゃくってね」
我が子を目の前にして「子ども」の話とは……じゃあ、俺は一体何者なんだと思いながら記憶が蘇る。
四歳くらいの頃だった。家族で海水浴に来た時、確かにここで迷子になったことがある。遠い昔の記憶が今でも残るほど、それは幼い子どもには恐怖だった。人混みの中に一人取り残された気持ちだった。
泣き叫ぶ俺を強く抱きしめ、優しく頭を撫でる大きな帽子のシルエット。太陽の光に目を細め、涙に滲んで見えたその姿-
「やっちゃん、もう大丈夫。泣かなくていいよ」
それは、お袋の声だった。
「また、こうやって一緒に来るとはな」
そう呟いた俺の声は、きっと波の音にかき消されたに違いない。
「懐かしいわ、本当に」
それからしばらくの間、お袋は春の穏やかな海を眺め続けた。その横顔は遥か遠くの記憶を懐かしんでいるように見えた。
「まさか姉ちゃんがこんなになるとはね」
首に掛けたタオルで汗を拭いながら綾子おばさんが言った。物が散乱した様子を見兼ねた叔母は、来るなり掃除を始めたのだ。
俺が叔母と会うのは数十年振りである。最後に会ったのがいつ、何処だったのかさえ思い出せない。
叔母はお袋の九つ下の妹で、車で一時間程の街に夫婦二人で住んでいる。
お袋と会うのは一年半ぶりだそうだ。
「あんた久しぶりね。元気?」
叔母を見たお袋の第一声がそれだった。まるで数十年振りに再会したかのように喜んだ。
「会えなくて寂しそうにしてたよ、姉ちゃん」
「すみません」
「あなたには、きついこと言っちゃったってね、って後悔してた」
「いや、俺こそ……」
今となれば本当に些細なことで、若気の至りとも言えない年齢だっただけに恥ずかしい限りだ。
窓から柔らかな陽光が差し込み、吹き抜ける風がカーテンを揺らす。まるで、いつまでも続くような穏やかな昼下がりだった。
今日はお袋に今後のことを伝える日である。既に結論は出ていた。誰がどうやってお袋の入所を説得するかというのが最大の問題であった。いくら本人が自宅での生活を望んでも、支える俺たちにも限界がある。いい加減、俺も自分の人生について考えねばならない。