【ARUHIアワード9月期優秀作品】『はじめまして、おかえりなさい』ウダ・タマキ

 月に一度の定期受診の日は、電車で隣接する伊部市へと向かう。小さなこの町には認知症を専門に診てくれる所は無く、伊部市にあるものわすれクリニックまで行かなければならないのだ。これまでは兄が休暇をとっていたが、前回からは俺が同行している。
 お袋の主治医は物腰の柔らかい若い先生だ。
「お母さんは記憶力の低下だけでなく周辺症状が現れやすいみたいですね。これからは徘徊や幻覚といった症状が出現しないか観察しておいて下さい」
 診察室から出ると、お袋が妙にニコニコとしている。
「どうした」
「優しい先生ね」
「そうか、良かったな」
「私、別に風邪引いてるわけでもないのにね」とお袋は無邪気に笑った。

 十二月に入り、兄が久しぶりに訪ねてきた。今年の冬は暖冬とされていた長期予報に反して寒さが厳しい。
「至る所に貼り紙してるんだな」
「あぁ、お袋がすぐに分からなくなるから」
「なるほどな、考えたな」
 お袋が混乱しないよう、物の名前や注意事項などを紙に記し始めた。日に日に増える貼り紙がお袋の症状の進行を表しているのである。
「どうだ、あれから」
「相変わらずだな。少しずつ進んでる気がする」
「そうか」
 もちろん、自覚症状は無い。お袋はいつものように庭の椅子に座り、何をするでもない時を過ごしている。
「毎日あれか」
「夕方になると、いつもな」
「風邪でも引かなければいいけど」
兄と俺は窓越しにその様子を眺めた。日が暮れ始め、外は薄暗くなっている。兄は腕時計を確認した。
「そろそろ戻るな」
兄がお袋に「風邪引かないようにな」と声を掛けると「あぁ、あんたたち帰って来てたのかい、おかえり」
と返した。お袋には兄がやって来た記憶など全く残っていないのである。
「さ、冷えてきたから中に入ろう」
「そうね」
 俺はお袋の手を引っ張った。足の筋力が少しずつ低下しているのも明らかだ。
 お袋は車から手を振る兄に笑顔で手を振り返した。
 その日の夕食はお袋と一緒にカレーを作ることにした。調理をする時の手もとが危うく、手順を誤ることも増えてきたので最近は補助が欠かせない。お袋が洗った食器には汚れが落ちていないことも多く、大半は洗い直す必要がある。それでもお袋のできることは継続してもらうようにしている。
 厳しい寒さにお袋は風邪を引いて寝込んでしまった。発熱が続き一日の大半を眠っているのだが、覚醒した時に話す内容はいつも以上に支離滅裂なものであった。
「昨日、その子が寒いって泣いてたから、暖かくしてあげて」と棚に飾ってある日本人形を指差す。
「今日はバレエの発表会に行くからね」と、時にはお袋が子どもの頃に習っていたバレエの記憶が蘇る。
 主治医が言ったように幻覚や幻聴といった症状が目立ち始めたのである。
 風邪で寝込んだ半月程の時間は、お袋の認知症を確実に進行させた。それは活動の減少を招き、やがて身体機能の低下へと繋がっていった。

 春を迎える頃には週二回、認知症対応のデイサービスに通い始めた。車椅子のレンタルも開始した。長距離の外出時には車椅子が必要なのだ。
「この先、自宅での生活は難しいかも知れませんね。今後について少し考えてみてはどうでしょうか」
 当初は俺自身の生活が安泰することが同居の目的だった。お袋に対する愛情などは微塵も無く、むしろ憎しみしか存在しなかった。しかし、今は違う。少しでも長く元気な状態で今の生活を続けてほしいと切に願うのである。
「どうしたものかな」とソファにもたれた兄が天井を見上げて大きく息を吐いた。
「今のまま維持できればいいけど、これよりも進行すると……」
「母さんの望まぬ施設も検討が必要か」
 兄が庭に目を向ける。そこにはいつものように椅子で過ごすお袋の姿があった。

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